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HOMENAJE

 

T

Fernando Sor

 

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根幹の肖像

第1部

フェルナンド・ソル

 

 

北口: 根幹の肖像、フェルナンド・ソルの講演を始めたいと思います。講師は濱田滋郎先生です。

 

濱田: ギターが好きな濱田滋郎です。

今、「講演」というご紹介なんですが、実は「講演と演奏」なのです。演奏も、もちろんここで非常に大切ですので、私はむしろお手伝い役という感じでおります。もし、これが絵の解説ですと、ここに絵を置いて、ずっとお話しできるんですが、音楽の場合は同じ耳で捉えるものですからそれができません。演奏の間は、もちろん、私は、慎んで傾聴するという形です。ですから、私の講演会というよりは、演奏とお話を、解説付のコンサートのような感じで行くと思います。

フェルナンド・ソルが、生まれたのは1778年の2月です。西洋の音楽史で対照してみますと、ベートーヴェンが1770年生まれですから、ソルはその8年後の生まれ、ほぼ同時代人ですね。モーツァルトは1756年の生まれなので、ソルはモーツァルトよりも22歳若いわけです。いずれにしても古典派の時代に生まれています。

生まれたのはバルセロナ。バルセロナは、皆さんよくご存じと思いますが、スペインの第二の都会で、地中海に面しています。割合、フランスに近い地方で、この地方では伝統的に標準スペイン語(いわゆるカスティーリャ語)とは違った、カタルーニャ語(カタラン)という言葉が日常語として話されています。例えば私がバルセロナに行きましても、バルセロナの人たちが仲間内で話しているのはカタルーニャ語なのでわからない。でも私たちに話してくれる時は標準スペイン語で話してくれます。つまり、バルセロナの人たちは幼いころからバイリンガルなんですね。ソルの時代でもそうだったと思います。ですから、ソルも時によってはフェルナンドでなく、カタルーニャ語でフェラン・ソルと署名していますね。そういう風に子供のときは、呼ばれていたに違いない。

家が割合に裕福で、お父さんはオペラが好きだったんです。それでソルを子供のころ、よくオペラに連れて行き、幼いソルはオペラのメロディを、すぐに憶えてきて歌ったりなんかしていたようです。お父さんはギターも弾けたので、ソルもギターを子供の時から爪弾いて、とても音楽的な家庭で育った。このような家庭環境が彼のキャリアの一番最初にとって、良かった訳ですね。

ソルは、幼年時代にまだ楽譜(五線譜)の読み方がわからないときに、音符を自分で考案して自分だけの音符を書いていたそうですね、そんなことが伝わっています。

 

北口: 書かれた音符の資料が、残っているのでしょうか?

 

濱田: 残念ながら、現物の資料は残っていないんです。多分、後年、自分で語ったことだろうと思います。それにしても、五線譜というものを知らないうちに自分で音符を考案してしまうというのは…。これは、なかなか天才的だったことだと思います。

 

北口: 幼い時から、音に対して、すいぶんはっきりした意識があったということですね。現代ですと、音楽の才能がありそうだということになると音大やコンクールを目ざしてといった風になるかと思うのですが、ソルはモンセラート修道院に入ります。私、この修道院での音楽教育というのがちょっとイメージが湧いてこないんですが…、

 

濱田: その後、お父さんが割合早く亡くなりまして、お母さんはこの息子をどうやって教育しようかということに非常に悩まれた様なんです。

バルセロナの割合近くにある「モンセラート」、ここは、非常に由緒のある、歴史の古い修道院です。教会と修道院が山の中腹に建っています。山の様子が、行ってみると、本当にギザギザの、凄い山なんですね。モンセラートとはどういう意味かといいますと、「モン」が『山』で、「セラート」が『鋸で刻んだ』という意味なんですね。『鋸山』なんです。そういう名前がついているとおり、本当に見ただけで神秘的な神々しい感じがする山でした。そこに修道院が建ったのも当然だなと思います。いろいろ、伝説などもあるようですね。

ここには、幼子のイエスを抱いた「黒い聖母像」というのがまつられています。行ってみましたら、思ったよりは小さいというか、人間の等身大ぐらいか、もう少し小さいくらいのマリア様で、確かに色が黒く塗ってあるんですね。これはいろんな説がありまして、元は白かったのが塗料の変化でもって黒くなってしまったんだという説もありましたけども、どうやらそれは最初から黒く塗られて作られたらしい。「モーロ人」(アラブ系のイスラム教の人たち)がキリスト教に改宗させられて(あるいは改宗して)、自分たちの肌の色にそのマリア像を作ったんじゃないかという説もあります。とにかくそのマリア像は奇跡を招いて、病気の人を治してくれたり、いろいろ、ご利益があるということで、巡礼がたくさん集まってきたところなんです。

また、「モンセラートの赤い本」という、スペイン音楽の歴史でとても有名な歌の本があります。この呼び名はずっと後世になってからなんですが、表装した時に赤いもので包んだので、「赤い本」と呼ばれて…、これも、このモンセラートで歌われていた聖歌を14世紀に編纂したものなんです。「赤い本」で紹介されている聖歌には、いろんなタイプのものがあります、単旋律のものもありますし、それからカノンの様に、初期のフーガの様に追いかけていく形のものもあるし、全部で10曲ぐらいですけども、とても内容が多彩で、音楽史的にとても重要なものなんです。これもモンセラートの修道院の中で作られた…、というように音楽的伝統が早くからあるところなんですね。

167世紀には「モンセラート学派」と呼ばれるほどに、宗教的なポリフォニー音楽の作曲と演奏の研究が大変盛んでした。合唱児童(聖歌隊)がとても有名でして、今日もスペインで有数の、児童合唱団がここにあります。「エスコラニーア・デ・モンセラート・児童合唱団」ですね。CDも出てまして、今この修道院に行きますと売っています。

ソルのお母さんは、お父さんが亡くなった時に、そんな風に音楽の伝統のあるところへソルを入れようと考えました。とても音楽的な才能があって歌もうまかったので合唱児童にしてもらって音楽教育を受けさせてもらえば、授業料もかからないし、お母さんとしては助かるということで…、ご紹介してくれる人があって連れて行ったんですね。こうして、彼は十代の初期のころにモンセラートの修道院に入り、ここで作曲を学んだんです。

とても重要なことがありまして、ここは修道院ですから、ポリフォニーとか昔ながらのグレゴリオ聖歌の知識とかの宗教音楽も教えてくれるんですが、それと同時に世俗的な音楽も大変盛んにやっていたんです。というのは、当時ここへフランス系の宗教音楽家兼司祭のような聖職者の人たちが何人か来ていて、この人たちが当時ヨーロッパで一番進んだ音楽であったハイドンやモーツァルトの音楽を持ち込んで、みんなに教えていたんです。ソルの先生だった人の中には、例えばナルシソ・カサノバスのように、今でも名前や作品の残っている作曲家が何人かいます。この人たちが、当時のヨーロッパの最新の、古典派の知識を授けてくれたんです。

この間、そういった音楽教育の中でもソルは、子供のうちから好きだったギターをずっと放さないで、余暇にはよく弾いていたようです。ですから、ソルはモンセラートで、ギターとそこで得た音楽知識というのを結びつけて、作曲を始めたんですね。そう考えますと、彼はモンセラートでとてもいい出会いをしたと思います。最初の手ほどきはお父さんですけれども、モンセラートで彼の音楽性というのものも養われたんですね。

このあと、彼はマドリードへ行きます。スペインのいろんな地方を周ったりもするんですが、おもにマドリードの、王室とか上流階級の間で、作曲家・ギタリストとして活躍を始めるわけです。

青年時代、ソルは音楽家であると同時に、軍人でした。意外だと思われる方があると思いますけれども、当時は軍職についている音楽家というものが決して珍しくはなかったんです。出世のひとつの糸口だったわけで、軍隊に入ってスペインのいろいろな地方に行ったりもしています。マドリードにいた時も軍職に就きながら、音楽家としての活躍をしました。

多分、これは私の推測で記録には残っていないんですけれども、彼はマドリードでボッケリーニに会っているんではないかという気がするんです。ボッケリーニはずっと晩年までマドリードにいまして、大変優れた音楽、みなさんよくご存じのギター五重奏曲を書いたのが17989年ですから、ソルが223歳ころですね。

そのころ多分、ソルのギターの先生というか、直接影響を受けたのはフェデリコ・モレッティという人です。当時は、ようやく6弦ギターという形が定着した時期なんですが、この6弦ギターの初期の教本もモレッティは書いています。それから作品も多少残っています。ソナタなどは、今演奏会で立派に弾けるような、ちゃんとしたものですね。

それから、14歳ばかり年下なので、ソルが影響を受けたことは無いんですけれども、ディオニシオ・アグアド。今日もその中の作品が親しまれている教則本を書きましたアグアドも、同じ時代にマドリードで活動していた人なんですね。

そういう先輩や仲間たちがいた中で、ソルは、ギタリスト・作曲家として、早くも大成したという形になります。この時期(初期、1810年ころまで、30歳まで)の作品には、グラン・ソロもありますし、非常に有名な何曲かのメヌエットも含まれています。

 

北口: では、その中から、のちに「作品11-6」として出版されましたメヌエット・イ長調を演奏します。この当時に、パリで出版されましたけれども、「スペインにフェルナンド・ソルというギタリストがいますよ」と、スペインで評判の人をパリに伝えるような、そういう出版物として出ました。後に出版された私たちがよく見る形(メッソニエ版)とは、少しだけ音符が違います。パリで先に出版された形(カストロ版)の方で弾きます。

 

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メヌエット・イ長調(のちのOp.11-6

 

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北口: 当時のマドリードでのギターの状況を想像しますと、愛好者も相当多くて、すばらしい先生もいて、ボッケリーニやソルのような気鋭の音楽家たちが活躍して、本当に活発な空気だったようですね。

 

濱田: そうですね、ギターは大変もてはやされた楽器のひとつですね。この曲のような非常に高度な音楽というのは、やはり宮廷とかの、選ばれたと言いますか、エリート社会のものだったと思いますけれども、一方で、民衆の人たち・一般の人たちも、今のソルの曲のようなものを弾いてたわけではないにせよ、盛んにギターを使って、ラスゲアードで伴奏を弾きながら、民謡などを本当に気軽に歌っていたようです。

 

北口: ソルのセギディーリャ集という作品などは、どちらかというと大衆的で、ギターも非常に簡単です。そんな作品もある一方で、今のメヌエットなどは大変アカデミックで、最新の、当時の前衛音楽と言っていいと思うのですが、ハイドンやモーツァルトの流れをギターに実現しようという芸術的志向を感じます。

 

濱田: そうですね。ソルは、だから、本格的なギター曲と、それからセギディーリャという、とてもね、あれも楽しいものですけれども、気軽な歌の曲、そういった一般的な新しい音楽とを書き分けていたみたいですね。

 

北口: 私は、このスペイン時代の曲で特徴だと思いますのは、親指で複数の弦にわたって、ときには6本全部を弾いたりとか、いくつかのアルペジオの手法ですとか、ハーモニックスなどといった、ギター独特の音響です。おそらく、ソルは、当時最新の古典派のハイドンの音楽の流れの骨組みにギターのいろんな特徴をうまくのせて、「ギター語のハイドン」とも言うべき、当時まだ誰も取り組んではいなかった作曲上の領域を追求していたのではと思うんですが…、

 

濱田: この時代は、まさにそうですね。この時代に書かれた第一グランド・ソナタも、最初、こういうギターのかき鳴らしで始まりますけれども、アカデミックに見ても、非常にすばらしいソナタです。アメリカ人のニューマンという人も、いろんな楽器のためのあらゆるソナタをひっくるめて書いている「ソナタの歴史」という本の中で、このソルのソナタについて、非常にグレードの高いものだという風に認めています。ギターの専門家ではないのですけれども譜面を見て、「この時代としては非常に高度なソナタである」ということをしっかり書いていますね。だから、見る人が見ても本当に音楽的に充実したソナタが書けたわけで、大したことですね。

 

北口: その後の曲にも共通して言えますが、音楽の骨組みについて、しっかりした基盤を持ちながら、いろんな要素を盛り込んで、非常に充実した力強い作品ですね。

 

濱田: そうですね。スペインを出る前の作品というのは、グラン・ソロもそうですけれども、大変活気にあふれていて「小さなギターを大きく聴かせる」という意識がありますね。

 

北口: ずっとギタリストとして暮らしてきましての、私のひとつの疑問なんですけれども、スペイン時代の力強い自信に満ちた作風があり、そして、マドリードではかなり活気のある、活躍のし甲斐のある状況だったのに、そこから、なぜ、今度、それを捨ててまでパリ・ロンドンへ旅立ったのか?フランス革命の影響で大きな転機が訪れたと思うんです。そのあたりのお話を、お聞かせ願えますでしょうか。

 

濱田: 彼は、35歳の時、1813年にスペインを離れまして、二度と帰らなかったんですね。例のショパンが、若いころに、二十何歳のころに、ポーランドを離れて二度と故郷へ帰らなかった、帰れなかった、という話は有名ですけれども、ソルも同様、35歳を一期としてもうスペインに戻らなかった。戻らなかったのには、訳があるんです。

ソルがスペインを離れる1813年という年のちょっと前に、フランスからナポレオンの指令を受けた軍隊が、スペインに入って来て、スペインで数年間、スペインとフランスが戦争状態になっていた時期があるんです。その時にソルは、ナポレオン軍に協力したということで、いられなくなってしまった。そう言いますと、いかにも祖国への裏切り者としか聞こえませんけども、実際はそう単純ではないんです。これはね、スペインはそれまでずっと封建的な王制で、非常に保守的だったわけです。スペインに限らずその保守的な流れの中にあって、ヨーロッパの知識人たちは、18世紀の啓蒙主義からフランス革命の成功を見て、自由主義というものに対して大きな希望を見出していたんです。今のことばで言う自由主義とは違うにしても、より新しい進歩的な思想、「何が何でも王様、王様」じゃなくて、「あとはみんな従っている」というような封建思想じゃなくて、もっと一般の人たちの意見を取り入れた、ちょうど今日の民主主義につながるような思想を実現する国にしたいという人たちが、スペインにもたくさんいたわけです。ソルもそういった流れに共鳴していたんです。つまり当時の自由主義者だったわけですね。ですから、これは決してフランスが、スペインを滅ぼして自分の国にしようとして入ってきたというわけではないんですね。当時の王に反対するスペインの新しい勢力を応援するために入ってきたんです。ソルも、フランス軍が入ってきた時に、「革命を成功させたフランスだったら…」、「ここではフランス軍に協力して、そして新しいスペインを作ろうという」、そういう意識なんです。当時、「スペインに対する愛国歌」というものをソルは作曲していますね。そんな「フランスが好きでスペインが滅びればいい」と思っている人だったら、到底そんな曲を書くということは無いわけで、あくまでもスペインのこれからの未来、将来というものを願えばこそ、彼は一時的にフランス軍に加担したほうがいいんだと考えた人の一人だったんです。一方、ナポレオン軍の方にも行き過ぎがあって、スペイン人たちの愛国心をいたく刺激したために、あのゴヤの絵にありますように、スペインの一般民衆が、立ち上がってナポレオン軍に刃を向けて戦うといった状況になってしまいましたから、ソルにとっては非常に不幸な状態だったわけですね。ソルは、「フランセサード」と後に言ったんですけれども「フランスびいき」「フランスかぶれ」という名前を着せられまして、迫害される身となってしまったのです。ソルだけではなくて、この時1813年には、知識的文化人で自由主義者の一群は、もうスペインを離れないことには、皆、処刑されてしまうかもしれない、そういう状況になりまして、彼らと一緒に逃げるように亡命の形でスペインを出たんです。で、フランスへ行って、フランスに2年ぐらいおりまして、その後ロンドンへ渡っています。

 

北口: ハイドンをはじめとする古典派の音楽とフランス革命というものが、最近、私の中でつながってきたんです。これは、どういうことかと言いますと、ハイドンの古典主義の音楽には必ず問いかけと答えがはっきりと書かれています。もちろんこれは、以前のバッハの作品やルネッサンス音楽でも感じられることですが、ハイドンやソルの作曲の中では、もうほとんど問いかけと答えしかないような曲作りになっているように思います。一方、私たちの生活の中での、ありありとした問いと言えば、例えば、自分はギター製作をしたい、でもすぐには食えない、というようなところで「じゃあどうしよう」といった問いかけですよね。このような実感を伴った問いとそれに対しての答え、これこそがまさしくフランス革命で言う、「自由」(=正解が用意されていないところへ「自分はどう生きたいのか」「何を仕事にするか」といった問いかけを発し、「腹をくくる」「骨をうずめる」といった答えによって、未来に対して、独特な、身を投げ出すような関わり方で、関わること)であって、この意味での「自由」を大切にすることで人間が豊かに生きれるんじゃないかというのが、フランス革命の一番いい部分の発想だったわけだから、古典派の音楽を尊敬するのと、自由の精神を追跡するのとは、心の中の同じ部分で起こる出来事なんです。

 

濱田: そうですね。問いと答え、それはベートーヴェンに至ってはもっと爆発してくるんですけれども。ええ、そう、確かに今おっしゃられることは卓見ですね…。問いと答え、フレーズが問いかけるとそれに答えるようなフレーズが出てくるというような…、確かにそうですね。

 

北口: 当時、ロンドンで出版されました曲から、次の曲を演奏したいと思うんですけれど…、

 

濱田: 彼は1815年にロンドンに渡って、そこでまた音楽家として新たに成功したのですが、一番有名な曲がこれから弾いて下さるモーツァルトの主題による変奏曲です。これは、彼がロンドンに渡った当時に、モーツァルトの最後のオペラの魔笛のロンドン初演というのがあって、ソルは、そのロンドン初演をおそらく観たんだと思うんですが、印象的だった歌の一節をとって、この曲を作ったようです。魔笛の中で出てくる敵役の、モーロ人(ムーア人)のモノスタトスという人が、自分の仲間と一緒に歌う曲なんですけれども、第一幕の終わりのころの「なんといういい音だ」、「なんとすばらしい響きだろう」、という歌ですね。彼は、多分、ロンドンでこの変奏曲を弾いて、非常に喝采を浴びただろうと…。ひとつの面白いデータがありまして、この曲は「我が弟、カルロス・ソルに捧げる」となっているんです。カルロス・ソルという存在は他には全然記録がないので、彼がもしこの曲を弟に捧げなかったら弟は歴史に名前が残らなかったわけですから、兄弟愛の曲かなと思ったりもしてるんですけれども。そんなエピソードもありましたね。

 

北口: この作品は出版も評判になったみたいですね。ソルは演奏活動もたくさんしていたので、ソル自身の演奏会の中でも、きっと、繰り返しとりあげて、出世作になったと想像します。では、モーツァルトの主題による変奏曲を弾きます。

 

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モーツァルトの主題による変奏曲(Op.9

 

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濱田: 今日もギターの最高の古典のひとつとして弾かれている名曲なんですけれど、まあ、これだけ変奏の技術を身につけていたというのは、素晴らしいことですね。

今、聴きながら考えたんですけど、当時は、変奏曲に序奏をつけて、それでおもむろにテーマを出してくるというひとつの書き方があったんですけれども、亡命の初期の彼にとっては、あの前奏というのは、亡命の切なさや悲しさを表していて、「でも私はロンドンに来て、スペインでは上演されていないようなオペラを見たぞ」と、「これから自分の世界は広がるんだ」と、そこで明るいテーマで、しかも、歌の文句も「何てすばらしい響きだろう」って、「もう、ギターの響きは本当にすばらしいんですよ」と、「皆にこれから聴かせてやるぞ」というような、そういう気持ちまで入っていたんじゃないかな、と今聴きながら思いました。

 

北口: 作曲者や演奏者の心境ですとか、聴く人々の聴く時の心境ですとか、そういうものを大切にすることは、その後のロマン派の精神だと思うんですが、このロマン派の精神が感じられますね。ハイドンの古典派の作曲を基盤にしながら、私は、ソルがこの時期、ひとつ捨てたものがあると思うんです。今の曲では、ギター特有のラスゲアードですとかハーモニックスですとか、ほとんどそういう特殊技法的な事は出てこなくて…、

 

濱田: そうですね。むしろかえって自分にそれを禁じているような…、

 

北口: その結果、非常にわかりやすくなったのは、そういった心情面でのロマン主義的な世界ですね。

 

濱田: そうですね。これはベートーヴェン、シューベルト、あるいはモーツァルトでも、すでに、自分の心情を曲の中で大切にして古典的な形式の中に注ぎ込む、ということは充分してますけれど、ソルもその好例といえます。だから、古典派だからといって、形式だけから入るのは、やっぱり中途半端なことであって、ソルの曲にはひとつひとつ全部、彼の心情が入っていると私は思っています。

 

北口: ロンドンではかなり活躍できたと考えてよろしいんでしょうか?

 

濱田: そうですね。ロンドンでは、ピアノ曲や歌の曲、イタリア風カンツォネッタなども出版してまして、一説によると、彼はギターだけでなくて、歌が大変うまかったので歌も教えていたんだろうという説もありますね、それぐらいロンドンで調子よく過ごしていましたし、その間、ロンドンにいながら、パリでいろいろギターの曲が出版される様になりましたね。メッソニエという出版社と提携しまして、作品を送って出版してもらうということになりました。ですから、当時の、ギターのひとつのメッカだったパリにも、ソルの名前は届いていた…

 

北口: どんな人たちが居たのでしょうか?

 

濱田: まず、イタリアから行ったカルリですね、彼は、非常に広くお弟子さんを取って、作品も膨大な数を出版しまして、あの量から見ても彼がいかに人気があったかがわかりますね。それから、フランチェスコ・モリノという人は、やっぱりイタリアから行きました。当時の漫画で、カルリ派とモリノ派がギターを振り上げて喧嘩している漫画がありますけれど、そのくらいギター熱があったんです。その漫画のタイトルが「ギターのマニア」…、ギター・マニアの人たちがこうやって、俺の先生のカルリのほうがいいだろう、私の先生のほうがいいだろうと、ギターを弾くどころかギターを振り上げて喧嘩している漫画なんですよ。それくらい割とギターは好まれていた中で、これも推測ですけども、もしかするとソルが最初、1813年にパリに行っていながらその後ロンドンに移ったというのは、パリではカルリとモリノがあまりにも名声を競っていたので、自分はちょっと出る幕はないという感じだったのかもしれませんね。

 

北口: 残されたカルリの曲の内容とソルの内容では、ずいぶん開きがあって、なかなかすぐには受け入れられなかったように思いますが…、

 

濱田: カルリを一生懸命やっていたアマチュアたちからすれば、ソルの曲は難しくて手が出なかったという感じかもしれないですね。パリには、その後、カルカッシとかも行ってますし、いろんなギタリストが集まっていました。フランス人のギタリストもおりましたね。

 

北口: 年号を引き算してみると、スペインからパリに出てきたのは35歳くらい、で、そこからロンドンに行ったのが37歳くらい、

 

濱田: それから7、8年間は、ロンドンを基盤に活躍して、その後、1823年に彼はロシアに行くんです。

 

北口: またもや、調子よく活動できていた町をあとにしてしまう…、

 

濱田: これは残された手紙など、いろいろな資料から確かに言えることなんですが、動機は、バレリーナとの恋なんです。フェリシテ・ユランという名前の、当時のバレー舞踊史などにも出てくるぐらいのかなりの花形のバレリーナとの付き合いがあって、二人は恋仲というか、ある手紙ではもう、Ma femme「我が妻よ」という呼びかけまでしていますので、結婚という形であったかについてはともかくとして、少なくとも一緒に暮らしていたでしょう。

それ以前にちょっと不思議なことがありまして、ソルには、娘さんがおりまして、彼より先に18歳で亡くなってるんです。亡くなったのは1830年代ですから、フェリシテ・ユランというバレリーナと知り合ったのがロシアに向かう少し前であるなら、その人の娘ではないですね。その前にできた娘で、しかも、スペイン時代の曲の中に、「我が妻に」って捧げた曲があるんですよ。だから、その段階でいったん結婚はしていたんですが、その奥さんのことが、弟さんの場合と同じで、一切記録が無いわけなんですね。こういう場合、よく音楽史の研究家たちがやるのは、向うはカトリック、キリスト教ですから必ず教会にその結婚の証拠が残っている、だから、彼がいたと思しき、バルセロナにせよ、マドリードにせよ、いろんな教会でもってそれを一生懸命、皆探すんですが、まだ、見つかってないんですよ。もっとも、その後でいろいろスペインは内乱とか戦争とかありましたので、そういう資料が教会の焼き討ちとかで、失われてしまったという可能性もありますけどね。とにかく実際に娘さんがいて、間違いなく結婚はしていたんですが、その奥さんがどういう人で、彼は果たして亡命の時につれて出たのか、置いてってしまったのか、そこはわからないんですよね。

それで話を戻しますと、当時ロシアは、西欧の芸術を吸収するのに熱心で、音楽家とか、舞踊家とか、いろんな芸術家を呼び寄せています。その波に乗って、フランスの有名なバレリーナとして、このフェリシテ・ユランも、当時のロシアの文化の中心地、サンクト・ペテルブルクに招かれ、それで一緒にソルはついて行った様なんです。

ソル自身も、バレーのためのオーケストラ曲を一生懸命書いてまして、人気があったんです。これ、残念ながら、ちゃんとしたレコード・CDになってなくて耳で聴けないんですけども、資料は残っているようです。だから、いずれはオーケストラ作曲家としてのソルというのも、日の目を見るんじゃないかと思いますよ。聴くチャンスがあると思います。最近、ヴァイオリン協奏曲というレコードが出ましたけれど、どうもこれはソルが書いたとは思えない作品だったんで、ちょっとその辺、引っかかる変な気分だったんですけど、とにかく記録によると、ソルは、弦楽四重奏とか、管弦楽曲とか、バレーの音楽などを作曲して、バレーの方でもかなりの人気作曲家だったんです。

ところが、一緒にロシアに行って、3年ぐらい、1826年にソルはもう48歳、中年になっていましたけども、パリに戻った時はどうやら、そのバレリーナとは一緒ではなかった様で…。だから、はかなく、ロシアで消えてしまったのか?

 

北口: 失恋と言いますか、ロシアでの生活が夢破れてパリに戻ったのでしょうけれども、その無念さとは裏腹に、私は、この時期の曲は深みがあって非常に質が高いように感じるんですが。

 

濱田: そうですね。ロシアの思い出だってずいぶん悲しい曲ですものね。この、パリに帰るころの作品というのは、非常に柔軟になって、叙情的になって、スペイン時代の初期の曲の覇気と言うか、スケールの大きさはちょっと薄れましたけども、繊細さという観点からは随分深みを増しています。グランド・ソナタ第二番なんかは、あの、第一楽章なんかも、とても哀愁があって、素晴らしい曲ですよね。

 

北口: この時期の曲から、練習曲を弾きます。ソルはたくさんの、百を超える教育的小品を残してくれました。とりわけ「作品31」は質が高いと思うんですが、その中から、1と、4と、23、それから、「作品35」の4と、この4曲を続けて弾きます。

 

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エグゼルシス(練習曲)集より

Op.31-1 / Op.31-4 / Op.31-23

Op.35-4

 

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濱田: ソルはこういうエチュードという、簡単な、小さい形の中でも素晴らしい音楽の作品を作っていますね。音楽の構成の起承転結の面からもそうですし、内容の面からも、自分の折節の心情というものを造形して、本当に味わいが深い。当時の新聞評なんかでは、「ソルは、非常に才能のある作曲家なんだけれども、どうしてこれだけの才能をギターのような貧弱な楽器に捧げるのだろうか」なんていうのがありますね。当時の人の見方からすれば、ギターというのはあくまでカルリが名声を博したようなアマチュアの楽器であって、決して高度な芸術楽器ではなく、やはり、ひょっとして音量の点でも、低く見られていた。そんな中、バレー曲を発表してオーケストラ作家としても認められたわけですから、普通だったらあまり受けないギターは捨ててそちらへ行きそうなものなのに、ギター曲だけに彼は作品番号を振ってたんですね、作品1から60まで。他のバレー曲なんかじゃ作品番号を与えてないんです。だから、それだけ見ても、彼が、いかにギターという世界を愛していたかということがわかります。「自分の楽器はこれだ」と決めて、評論で認められなくても「自分は永遠に繋がるものを書いてるんだ」「次の何百年かの後に、この曲で慰められたり、勇気づけられたりする人がきっといる」という信念を持っていた、とても信念を感じますね、ソルの音楽は…。今日の評論家でもやはり、ソルをあまり重くみない人もいるんですね。「ソルはギターのベートーヴェン」という言葉になりますと、ベートーヴェンとソルを較べるとは何事だ、というような論調でこき下ろす人もいますけれど、私は、十分、較べられると思います。あの月光と言われたロ短調のエチュードにしてもね、あれだけのものを、この材料で書ける人って、作曲家って、当時何人いましたか?!…。いませんよ、あんまり…。もう、シューベルト級の最高の作曲家でなきゃ書けない曲です。だから、そういうものに携われるのはギタリストの特権でありね、楽しみですよね。

 

北口: 私、教室しておりまして感じるんですけれども、多くの方にとって、実際、ソルのエチュードをきっちりと弾こうとした時に、各パートを歌っていかないと曲にならないというのは、非常に難しい、ごまかせないんです。一方で、派手な曲が、技術的に簡単だけれどもそれに比べて効果があがる曲が他にたくさんあって目移りしてしまう人が多いんです。でも、ソルが「歴史の中にこれを残したいんだ」という一念で書いた練習曲集などの作品を、私たち、本当はもっと大切にしないといけない。

 

濱田: とっても意識が高い作曲家です。このギターという世界でそれができた、ということは、やっぱり、もう、偉人と言っていいですね。他に彼の生活がどうであったとか、どうして奥さんが変わったかなんかは二の次としまして、芸術家としたら、本当に、もう、素晴らしい、高い意識を持った芸術家だと思います。

 

北口: その後、出版社のメッソニエとは、喧嘩別れのようになってしまって、

 

濱田: 何か条件面で折り合いがつかずに、やめてしまったようです。

 

北口: そのあとは、自分で関わって共同出版の形になりますね。共同出版でようやく出た、教則本ですとか二重奏用の作品などは、おそらくソル自身の強い意思だったと思うんですが、それとは裏腹に比較的、寂しい感情が漂ってきたように、私、調べてて印象を受けたんです。これは、教則本の内容などから見て、なんとなく当時の批判や論争の中に巻き込まれながら、自分はもっとこつこつと自分の作風で残したいんだけれども、本来の値打ちが、なかなか世の中に、あまりすぐには理解されず、…

 

濱田: 作品何番でしたか、出版社から「もっと、やさしい練習曲集を作ってくれ」と頼まれて、それで「これでいいか」とか「これならよいか」と出版社に渡したものが、そのまま曲のタイトルになっちゃったという、漫画のような面白い話がありますがね。こんな状況でも、彼は自分を守って、いろんな傑作を書いていくわけです。

ウィーンには、ロシアへ行ったついでに寄れば良かったと思うんですが、ウィーンにはどうも現れてはいないんですね。それで、ジュリアーニと会うチャンスはなかったみたいですね。当然、音楽家の行き来もありましたから、ウィーンにはジュリアーニという凄いのがいたという話は聞いていたと思うんですが…。でも、この時代、彼はスペインから来たアグアドと親交を結んで、同じホテルに泊まって二重奏を楽しんだり、コストなど次の時代の音楽家たちに、自分の作風を伝えたり、理解者もいたようです。コストなんかは、よりロマンティックになってはいますけども、本当に、ソルの作風をよく受け継いでいると思いますね。ソルの作風というのはね、ソルの音楽を弾く時は、とても大きな要因ですから、ぜひ注目して楽譜を見直していただきたいと思うんですけども、そのまま三部合唱ぐらいにして歌える曲が大変多いでしょう。合唱曲みたいに、各声部が、横の線をとても大事に書いてある。ジュリアーニは、それに比べると、一本のメロディと、それに付随した伴奏の和音とか、フィギレーションとか、そういうもので書いている感じがします。ソルは、この点、やはりモンセラートで初めに宗教的ポリフォニーを学んだっていうことが大きいんですが、ギター曲の書法として、まさに後世の良きお手本となるものを作り上げたんですね。

 

北口: 晩年、スペインに再び入国したい、と願っていたようですが、

 

濱田: 彼は本当に帰りたい気持ちがあったらしいんです。スペインの王室に向けて書いた手紙が残っていますが、本当に切々と「私は決してスペインに対して反乱心を持つ者ではないし…、」ということを説明して、「たまたま外へ出てしまいましたけれども、スペイン国家に対しては本当に忠誠を尽くしたい人間ですから、」というようなことを書いて、再入国の許可を願ってますけど、受け入れられなかったみたいですね。だいたい、もう、二十数年経ってこの時代になってもまだ、自由主義者っていうのは、帰国できないような状況が続いていたみたいです。もう自分で健康も衰えてきてましたので、そういう望郷の念、スペインに二度と帰れないという悲しみ、そういうことが強く出てきて、ちょっとエレジー風の、悲しみを述べた作品が、ずいぶん目立つようになってきました。

当時18356年ごろ、彼を訪ねた人の記録が残っています。ソルの部屋を訪ねたら、ソルはとても悲しみに沈んでて、ちょうど自分の娘さんを早く亡くして、18歳ぐらいで亡くしてしまって、窓辺に花を植えて、そしてそこに、お墓の代わりにシンボルとなるものを置いてね、「これは娘の、私にとってはこれが娘のお墓なんだ。」というようなことを言って、暮らしていたみたいです。とても晩年は寂しかったみたいですね。彼を慕う、コストのような音楽家たちもいましたから、慰めはあったと思うんですけども…。それで、最後に亡くなったのは癌…、舌癌なんですね。口の中の癌で亡くなっていますから、大変まあ、苦しかっただろうと思いますけれど。亡くなってからもスペインには帰れず、遺骨はパリの墓地に…、今でも、そこにありますね…。

最後に弾いていただくのは、彼が最後、もう殆ど最後に書いた大作、悲歌風幻想曲です。これは、彼のお弟子さんだった女性が亡くなっているんですね。やっぱり、自分の娘だけでなくてそういう人が亡くなったことも、彼にはショックだったんでしょうけれども。あの最後の呼びかけのところの音符に、歌詞のようにCharlotte,Adieu!「シャルロットよ、さようなら」と書き添えてあるんですよね。それを見ても、彼が相当深い想いを寄せていた人だったという気がします。葬送行進曲が始まってから、この呼びかけに至るところ本当にこの曲は悲しい…、でも悲しい中、非常に、格調高いですよね。

 

北口: 弾くたびに思うんですが、悲しい、辛いっていうこともありながら「だけれども私は生きよう!」という、強い足取りのようなものを感じます。私は、この足取りこそが、ソルの晩年の精神状態だったと考えたいんです。自由をしっかりみんなで支えるような社会を夢見てスペインを飛び出し、ギターの真髄を「こう曲に書けばいい」、ギターを愛する人たちと「こういう風に関わろうじゃないか」と、明るく踏み出したものの、次第に、今自分が生きる時代の中でそう広くは受け入れられなかった、というとき、身近な人の死をきっかけに、この自分が生きる命の引き受けかたをもう一度問いただし、ソルはそこで、今の仲間を増やして浅く広く関わる欲の方は捨てて、歴史を突き抜けて、ギターを愛する人たちと本当の心の繋がりを持とう、という決断と希望をまた見出した。この曲の格調の高さは、この希望の崇高さで、足取りの強さは、この決断の勇気なのではないかと思います。

 

濱田: そうですね、もう後世に向けて書いた彼自身の遺書みたいな感じの曲ですね。これを残してくれただけでも素晴らしい作曲家です。

 

北口: では、悲歌風幻想曲を弾きます。

 

 

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悲歌風幻想曲 Op.59

 

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濱田: 本当に、あとはもう、ことばは空しい、何も言えなくなってしまいますね。

 

 

 

 

 

 

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講演:2000114日・茨城県・洗心館にて

   きずなの会主催「音楽のきずなセミナー」第2日・「根幹の肖像」第1部として

制作:きずなの会 (禁無断複製)

発行:2001年5月28