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根幹の肖像
第2部
フランシスコ・タレガ
正しいタレガ像を見ていただけたら…
濱田: ギターの世界では、もう長いこと、「古典ではソル、そしてその後のロマン派ではタレガ」と両巨頭のように言われて来ました。確かにそれだけの業績を残した音楽家達です。ただ、近年の傾向から言いますと、ソルが依然としてギターの古典の、最上の音楽家・作曲家として敬愛されているのに比べて、タレガの作品はいくらか取り上げられる率が減ってきたかな、という感じがします。
もちろん、彼の場合、強みなのは、アルハンブラの思い出という永遠の名作が、ひとつありまして、あれで「ああ、『アルハンブラの思い出』のタレガか」という風に世間が認識するぐらいあの曲は大変広く知られていますし、もうひとつ、「近代ギター音楽の父」といわれるキャッチフレーズ、これまた強力でして何となく皆が納得してしまうんですが、歴史をたどってみてもタレガはそのような位置にある非常に重要な作曲家です。
ただ、彼の作品の真価ということになると、果たして、今日、正当に受け容れられているかどうか。「ちょっと甘すぎるんじゃないか」とか、極端な言い方をする人からは「演歌っぽいのではないか」とかの意見を聞きます。私は、これは決して彼の作品そのものに罪があるのではなくて、まあちょっと語弊があるかも知れませんけど、従来ですね、日本で、タレガを扱って弾いてきた人達の、意識とか弾き方といった点に、多少、問題があったのではないかと、つまり、タレガの曲には、大変、ロマンティックかつセンチメンタルな面がありますから、そういう情緒的な面さえ一応押えておけば、あとはやっつけて、いわば、安っぽく演奏することもできますから、そういう風に演奏する人がかなりいたということですね。そういうものを聞けば、やはり、認識を誤ってしまうわけです。
北口: タレガの作曲姿勢は、歌いまわしの芸の披露、それのみにずっと注目が集まるような音楽の価値観ではないということですね。
濱田: 実際には、タレガというのは、センチメンタリズムが売り物の作曲家とか、ただそれだけの音楽というのでは、決してありません。その辺を是非、今日の講演、演奏と私のお話で、できる限り補って、「正しいタレガ像」というものを皆さんに見ていただけたらというのが、今の私の気持ちです。先程の、第一部のソルにならいまして彼の生い立ちとか時代とか、そんな話から、始めていきたいと思います。
青年期まで
濱田: 彼が生まれたのは、スペインの東の方、地中海沿岸のカスティリョン・デ・ラ・プラーナという県にあるビリャ・レアールという町です。今はタレガの故郷の町として有名といえば有名ですけれど、決して大きな町ではありません。お家も、特にお金持ちの家ではない普通の勤め人の家に生まれています。
音楽的な才能は早くから見せていたようですけれども、ひとつ、彼は子供の時から目が悪かった、非常に視力の弱い人だったんです。これは先天的というよりも、生まれて間もない頃の事故が原因と言われていますね。何でも、家に子守り娘、とは言っても、特に人を雇えるような家ではなかったので、多分、近所の女の子だったと思うんですけれども、その娘がタレガの子守りを任されて、タレガがむずかるので癇癪をおこして近くの溝の中に放り込んでしまって、その時から目が悪くなったんだと。
あと、「逆さまつげ」と言いますか、まつげが目の外じゃなくて中のほうへ伸びてしまうという奇病も持っていて、後年、まぶたの手術をしています。
でも、その目が悪かったということのおかげで、両親が「音楽家の道に進んだらいい」と考えたんだそうですから、もしかするとその子守り娘は、救いの女神か音楽の女神の化身だったのかな、なんて思ってしまうくらいですね。もう8歳くらいの時からお父さんは、近くのピアノの教室とか音楽教室に通わせて、音楽の初歩を身につけるようにしたようです。そういう意味では、子供の才能を早く見抜いて教育を施したわけです。
ギターは、近くに、「何とかの盲人」というあだ名のいわゆる物乞いの人(ギターを弾くことでもって施しを請いながら歩く人)がいて、やっぱりその人も目が見えない人だったんですが、その人の弾くギターにタレガは本当に夢中になって後をついて歩いて、自分も安いギターを買ってもらって、早くから弾いたようです。
まだ15歳ぐらいの時に、ブリアーナという近くの町のカジノで、ピアノを弾いていました。カジノと言いますから、賭博場みたいな所だったと思いますけど…、
北口: 年齢からしますと、そういう場所で、随分いろいろな社会勉強もしたでしょうね。ギターやピアノで身銭を稼いでという生活に入ることで、これで生きるんだという職人的な緊張感を持ったでしょうし、音楽に打ち込む意識も進んだんじゃないでしょうか。
濱田: そうかも知れないですね。お坊っちゃんじゃなくて、家が貧しかったからですけれども。ギターも、近所の仲間では評判の腕前になったようですね。
北口: 「ターレガの生涯」(濱田滋郎・訳/現代ギター社・刊)というプジョールの著書に拠りますと、このフランシスコ・タレガ少年に、ブリアーナの村の人たちがお金を出し合ってトーレスの楽器を贈ったとありましたが、これはどの程度、信憑性が…?
濱田: これがまた美談なんですよね、なんかちょっと考えられないようなね。これは、エミリオ・プジョールというタレガの高弟・一番弟子が、師匠タレガから直にいろいろ話を聴きだして書いてますから、これは嘘ではないと思います。残念ながら「ターレガの生涯」は、今、絶版…なんですよ。
ちょっと余談ですけれども、この翻訳の当時、いろいろ考えましてね、タレガの表記ってのは何が正しいんだろうって。アクセントが最初のaにあるから、ターとのばして『ターレガ』になったのですけど、タルレガっていうのも割合普通にありまして、これはRが2つあって巻き舌になりますから、それもいいかも知れないし、タレガでいいと思うんですけど、困りました、その時は。
北口: この本の記述では、タレガ少年を連れて数人の村人がトーレスの工房に行って、「この若者にギターを買い与えたいんだ」と、で、そしたらトーレスさんが、「では、これを弾いてみなさい」ということで、ギターを一本手渡して、でも試奏が始まるとすぐに、非常に上手いものですから「このギターはあなた向きではない」と言って、二階から最上級のギターを持ってきたとか。
濱田: まさかと思ってたけど、上手いので二階からとっておきのを持ってきて…、そうですね、そんなことが書いてありました。
たしか…、この時、村人達もそうだったでしょうけど、一人お金持ちがいて、助けてくれたんですね。その名前が…カネサといって、「世の中は、やっぱりカネサ」(笑)…と、お金を出してくれたらしいんですよ。
北口: これが、タレガとトーレスの出会いになる訳ですね。
濱田: そうですね、この二人のね。
その後、音楽院に入るにはだいぶ年をとっていたのですが、二十歳過ぎてからマドリードの音楽院に行きますね。これもやっぱりそういうカネサのような後援者があって、なんとか送り出してくれたんだと思います。
当時は、まだマドリード音楽院にはギター科は無かったんです。ギター科は20世紀に入ってから出来ました。それで、タレガは、ピアノと和声学を習って、これはいい成績をとったようですね。でも、ギターをずっと放さないでいたものですから、教授達がそれを見て、「そんなにギターが好きで一生懸命やってるんだったら、お前、一遍弾いて見ろ」ということで、学内コンサートをやってくれて、教授達が並んでそれを聴きました。「ああ、今時こんなに素晴らしくギターを弾く青年がいるのか」ということで、マドリード音楽院の話の種になったようですね。その後、ギター科はもちろん無いですから、普通のコースでもって割合短日月に卒業して、それでマドリードを中心にコンサートを開いていくようになりますね。
タレガの場合、だいたい初期の曲とか、中期の曲とかいう見当はつきますけれど、作品リストの立派なものは、残念ながら、ない。それで、各作品の作曲が一体何年になされたか、今、ほとんどわからなくなってしまっているんですね。直接、触れあいのあった人達が何とか作っておいてくれればよかったんですけどね。プジョールのこの伝記の原本にはリストが載っていますが、それにも、作曲と編曲のタイトルが載っているだけで、ひとつひとつの曲の成立年までは載ってないんです。ですから、そういった年代的な考証・考察というのは今となってはかなり難しい…に近いと思うんですけど、とにかくこの時代から作曲をしてたことは間違いないですね。
だいたいこの頃、1870年代・80年代(20代から30代にかけて)に書かれたであろう曲としては、今日よく聴かれるロマンティックな小品でアデリータとかラグリマとか。こういう傾向の、ごく内輪なロマンティシズム、本当に小さな形の中に自分の詩情や感動を込めたロマン的な小品が、80年代くらいには書かれていただろうと思います。
北口: では、アデリータ・ラグリマ・マリアを3曲続けて弾きます。
アデリータ・ラグリマ・マリア
タレガとロマン主義
北口: この第2部の使用楽器は、トーレス(1867年製作)です。
私自身は、このトーレスの楽器に1995年、今から5年前に初めてめぐり会いました。CD録音に向けて2週間ほどお借りしたんです。実は、恥かしながら、私自身、タレガの曲の真価というものに対して、その時までさほど感じてはいなかった…、もちろん、タレガですから時々家では弾いていましたが、コンサートでは他の曲を選んでしまって、なかなかタレガの曲を人前で弾く機会は少なかったんです。ところが、このトーレスの楽器で、数回弾いてみるうち、積年のもやもやが晴れ渡って、その代わりに「これを、この感触を、書いてあったのか」という感慨が押し寄せてきたのを覚えています。その時は直観じみたことだったのですが、その後次第に裏付けが取れて来ました。これは、ロマン主義とは何かということなんです。少し長くなるかもしれませんが、お話しさせて下さい。
私たちがよく使う言葉で「音程」という言葉があります。歌の上手な人のことを「音程がしっかりしている」と言ったりしますね。それから、それとは別に「音の高さ」という言葉があります。どちらも、「ドレミのことでしょ」と言われるとそういうことなんですが、実は楽譜に書いてあるのは「音の高さ」なんです。アデリータの場合でしたら、冒頭の、高音のミとレ#を、もし、ただ「はい、12フレット、はい、11フレット、…」と思えば、それは「音の高さ」なんですね。ちょうど、連続写真の一枚一枚のようなものです。しかし「音程」というのは、ミに対してレ#へは、半音下がるんだ、という変化(動き・運動)ですね。面白いことに、連続写真2枚だけでも「人がゆっくり歩いている」とか「ボールを遠くに向かって投げている」とわかるように、人間は、写真という通過点をつなぐような運動のイメージを、あいだの写真がなくても持てるんですね。だから、全くイメージ抜きに写真に近い姿勢をとろうとするよりも、何らかのイメージを持ってサッとやってしまった方が、うまく写真に沿った姿勢がとれてしまうということがありますね。こんなイメージのことを、その動作の「一体感(Gestalt)」と言ってもいいと思います。(「音程」の場合、この「一体感」は、ミからレ#への音の運動が、あるひとつの動きに、つまり、歌に、感じられる、まさにその感触です。)
面白いことに、動作の「一体感」は、「歩いて、どこにいきたいのか」「投げて、どうしたいのか」といった、いわば、生きる上での動機づけを、より深く、しっかり確認することよってどんどん安定します。「意味」が安定するからでしょうね。「意味」を深めておくほど動作が確実になるという、心の営みを、私たちは日常よく体験していて、「邪念がない」とか「無心に」とかのことばで意識してます。「音程」を歌うときも、この「一体感」の方を目的として持っていればいるほど結果として邪念なく「音程」も取れるし、「これを歌って何がしたいの?」という「意味」が深いものであればあるほど「一体感」が安定し、つまり、無心に歌えるんです。そして作曲者が書きたいのは、この「意味」の方なんですね。
濱田: 音符に表せない、楽譜からはわからないもの、ですね。
北口: そうなんです。
私、実はこの楽器で初めて体験したんですが、音を鳴らしたときにかもし出す、ある種の「気」のようなものがありました。ミがどういう勢いを持っているべきか、そこから次の音へどのように下りるのかということをめぐって、製作者が楽器に込めている「意味」がとにかく強烈なので、演奏者も自分の中で何かを持って弾かないとあばれてしまう、だから演奏者も「意味」を深めようとする、そうすると当然、作曲者が曲に込めた「意味」も引っ張り出されてきて…と、そんなことが起こったわけです。譜面に書かれてはいないものについて、すごくこの楽器から教えられたように思います。
結局、私の言いたかったことは、音楽におけるロマン主義の原点とは、「音程」をどんな動きとしてこの場に出現させたいのか(「一体感」を安定させている「意味」)を、何かそれは本当に人間の中にある曖昧で微妙なものなんですが、でも確実にある、そういったものを、他人にはどうせわかってはもらえないなどと考えずに、この皆さんが居る場に表現して出す、つまり、人間を信じて「意味」を場につむぎ出すこと、だと、
濱田: 内心の表現、非常に微妙なものの表現、ということですね。
北口: ひとつの「音程」は特定の凝縮された瞬間ですが、そこから、このひとつめに対して、じゃ、次はこうありたいという、これが展開になって、本当に豊かな、音楽の世界が広がったように思いました。
ギターの歴史で同じようにロマン派とされる人たち、例えばフリアン・アルカスですとかソルの後継者であるコストですとか、そういった人たちと比べながら、注意深く楽譜を見ていきますと、やはりタレガが、初めてそういうことに気がついて、この6本の弦のギターの上で、どういう曲を書けば「意味」の出会いになるのかを本気に追求した人じゃないかなと…、
濱田: なるほどね。卓見ですね。ギターでしか表せないロマンティシズムということですね。
タレガの音楽が要求しているもの
濱田: 先程弾かれた3曲にしても、どれも余計な音符がない。ひとつもない。足りない音符もひとつもない。本当に、切り詰められたぎりぎりの枠ですよ、これ…。まあ、タレガの曲の中には少しお弟子さんのために程度をおろして書いたかなっていうような曲もあるんですけれども、傑作と呼ばれるもの、彼がいつもコンサートで弾いたであろう、こういう完成された小品には、本当に作品としての完全さが備わってますね。これは絶対に、「演歌」的な、安っぽいという概念とはもう正反対の位置です。芸術作品ですよ。
北口: 弾き手も、ただ崩せばいいというのではなくて、自分がこの出会いをどういう出会いにしたいのか、この曲で何を伝えたいのか、といったことにしっかりと意志をもって、ひとつひとつのフレーズについて、だからそれぞれこう展開して欲しいんだと、本当に緻密に確認し、それを何年にもわたって繰り返しながら、ひとつの洗練というものをねらって行かないと、曲との釣り合いがとれないままに終わってしまいますね。
濱田: そうですね。今の北口さんの演奏でも、例えばコンピューターにかけて音符を再現したりメトロノームに合わせて、というのから見たら随分崩れていますよね。だけど、崩れているからこそ素晴らしいのであって、それがつまり、演奏者の「創意」をタレガの音楽が要求していて、この要求を絶対満たしてあげなければ音楽にならないということなんですね。
「マリエータ」の秘術
濱田: タレガは、彼以前のギターではあまり見られなかった、非常にロマンティックな音の使い方を、とても格調高くギターに取り込んでくれた。あとで弾いて下さる編曲作品に見られるように、タレガは、ロマン派時代のいろいろな音楽家たちにとても愛着があって、もう、いつも聴いていて、そのエッセンスをできればギターで表現したいということを考えた人ですね。
それから、編曲ということでは、バッハの音楽をギターに取り込んだことでも、彼は最初の人、少なくとも最初の一人です、他に多分いなかっただろうな…と、もしかしたら隠れた人がいたかも知れませんけど、表に出てきたところでは彼は最初ですね。バッハの「フーガ」などを、19世紀のうちに(この時点ではリュートというものの存在すら忘れられていましたので彼はおそらく元の無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番から)、ギターにアレンジしていますね。そういう風に、ギターのレパートリー以外の古典やロマン派の非常に水準の高い、たくさんの音楽を、やっぱりギターで熱心に弾いてみることによって、彼はこういうアレンジや自作の作品を生み出したんですね。
次の曲は…、マリエータですね。先程、マリアというガボットのリズムの曲がありましたが、マリアというのは女性の名前で、この場合は身近なマリアという意味で、聖母マリアのことではないと思います。彼は、奥さんがマリア・ホセファといいまして、奥さんの名がマリアなんですね。それから最初に生まれた長女がやっぱりマリアという名前で、奥さんのと同じ名前にしたんですけれど、不幸なことにこの長女が、早く亡くなってしまう、それで、悲しみにくれて、その結果生まれたのがこのマズルカのリズムをもったマリエータだったという風にプジョールの伝記にはありますね。Marietaというのは、Mariaの愛称ですから、小さなマリア、可愛いマリアというような意味ですから、きっと娘さんのことですね。それで、楽譜のタイトルを見ますと、エクスクラメーションマークが書いてありまして「マリエータ!」っていう非常に切実な呼びかけになってるんですね。
この曲で本当に彼がロマン派の作曲家だなと思うのは、最初にグリサンドで上がってファからミミーレレーと下りてきたところのレ、このレが半音上げられてシャープ#になってまして、それが、もう、その音じゃなきゃ絶対にいけない音なんですよね。普通、半音を使うときは次に経過してゆく音とかの、あいだのアクセサリーの音として、半音を使うんですけれど、このマリエータあっては、このレ#、これがレの#じゃなくちゃ絶対いけない。だから、レの#が、むしろ音階の中のひとつの音という感じがするぐらいですね。あのロマン派の権化のようなドイツの作曲家、ロベルト・シューマンのヴァイオリン・ソナタの第一番の主題が、ドーファーミミーレ(#)ーで、同じ感じなんです。そのレの音が、全くその#の音じゃなければどうにもならない、動かせない、本当に切実なひとつの情感を表している音なんですよ。だから、もしかすると、タレガはこのソナタを知っていて、ここに、まあ無意識にしてもね、使ったのかなと思いますけど。古典派までの人で、このイ短調の曲におけるレの#の音、これをこんなに切実な情感を込めて、もう絶対動かせない音として使ったという例は無いと思いますね。
北口: このレの#は、ソルのような古典的な作曲の態度でしたら、すぐに、ミに解決しようと…
濱田: 解決できないところがロマン派なんですね。
北口: このまま放り出されますと、心臓がちぎられるような思いが残りますね。
濱田: 本当に「マリエータ!」って、エクスクラメーションがついているタイトルにぴったりですね。こういうところを見ても、タレガは、まさにロマン派の時代を生きた、しかも独創的な作曲家だったと思います。
あと、彼の作品で素晴らしいと思うのは、彼の名曲と呼ばれるものはすべて、メロディーをすぐに覚えられますよね。このメロディーを覚えられるっていうのはやっぱり大作曲家のひとつの条件じゃないかなと思うんです。ソルでも、それからモーツァルトでもベートーヴェンでもシューベルトでもブラームスでも、みんなそうなんですが、すぐに聴いて覚えられてしまう主題を作る能力を持っている作曲家というのは、実は意外に少ないですよね。理論的にはもう非の打ちどころのない名曲を書いた人でも、そのテーマを今思い出して口ずさもうとしても、なかなか出来ないというタイプの作曲家もいますからね。テーマを覚えやすいということは、ひとついい意味でのポピュラリティ(誰の心にも訴えていくわかりやすさ)ということにもつながります。でもその一方で、今、私の言ったような工夫、工夫って言うとちょっと人工的な感じがしてしまいますが、作曲の上での、まるで秘術のようなね、霊感による作用が作品を支えているんですね…。
北口: では、この曲を弾きます
マリエータ
北口: 私自身は、もう一カ所、非常に好きな場面があります。6小節目からのミーレラシドーという動き、これが、私、ものすごく、ショパンだなあという感じがするんです。
(まず1拍目から2拍目にかけて、低音のC弦のファを土台に高音でミからレに動くまでの間の緊張感、その後2拍目の裏のレでDmの和音がはっきりすると、3拍目に向けて高音と低音でそれぞれ4度下行と1オクターヴ下行の音程跳躍を経て、次の7小節目Amへはいずれも半音の動きで滑り込む。)
濱田: 下のファ(E弦)もいいですね。
北口: これが今度、14小節目で1オクターブ下がって出てきたときには、ミーレドシドー。1回目はミーレラシドーだったのが今度はミーレドシドー。その時には、上の声部が、次の小節に向かってファーレーミーと動いてから下に飛んでソ#―ラと終止する…と、よく考え抜かれた曲だなあと思います。
しっかり見ていきますと、ショパンやシューマン、メンデルスゾーン、あとシューベルトですとか、そういった人達たちのおいしい部分をタレガがたくさんの曲の中からよく知った上で、決してまねたのではなく、自分の言葉で、まさにギターのために、曲を残してくれた…、
濱田: もう完全に、本質を吸収するまでに、よくよくそういった楽譜を読んでいたということですね。今おっしゃったように、細かいところまで本当にもう芸術作品です。ですから、もう、ギター製作家が製作するギターのようなものだと思います。「ここはこう、ここはこう」って、自分で考えに考えて、それで「こうだ」と本当にうれしく決まったときの感動がありますね。
だから、やっぱり、メロディーの甘さや美しさだけを追いかけるんじゃなくて、すべての構造とその意味をよく考えて弾いていただきたい。深く考えれば考えるほど、タレガという人は、思っているよりはずっと深みのある偉大な作曲家だったということがわかってくると思います。
芸術家魂
北口: さて、このマドリードの音楽院を出た後、本格的に活躍を始めますけれども、昔のことですので、ラジオの放送もないですし、録音もない時代ですから、本人が各地を回って…、
濱田: そうですね、パリとかロンドンにも行って演奏してますね。プジョールをはじめとしてタレガのお弟子さん達は、師匠のタレガを賛美するあまり、その前は全く不毛の時代だったかのように書いてしまっていますが、決してそうではありません。例えば、この時代ですとスペインにギターの名演奏家としては、ちょっと世代の早いフリアン・アルカスなどがおりまして、彼の曲にも聴くべきものは充分あります。第一、今日、タレガの作品と言われているヴェルディの『椿姫』の主題による幻想曲は、実はほとんどアルカスが作曲した曲ですね。タレガが盗んで失敬したわけではなくて、タレガも好んでそれを演奏したために、タレガの作品だと誤って伝えられてしまっただけのことなんですけれども。そういった一群の演奏家がいたんです。そんな中で、やはり、スペイン以外のパリとかロンドンでも好評を博し名声を上げることができたということは、タレガというのは演奏の面でも、ひとつ画期的な仕事をしたということですね。
それで、30歳を越してからは、ほとんどバルセロナを本拠にして暮らしました。有名なアラビア風奇想曲は、だいたい1888年ぐらい(36才頃)の曲だと言われてますから、バルセロナに定住してしばらくしての曲ですね。この頃、彼は結婚もして、子供達も生まれてます。最初の娘さんは亡くなりましたけど、あと何人か子供も生まれて、バルセロナで、ギターを教えながら落ち着いた生活を送ったようですね。その傍ら、いろいろ方々へも出かけて…、南スペインのグラナダのアルハンブラ宮殿へ行きまして、その実際の感銘からアルハンブラの思い出を書いたのは1896年(44才頃)だと伝えられています。そういう風に演奏旅行などもしていますし、お弟子さん達をたくさん育てて、演奏・教育・作曲・編曲、各分野で、前の時代の人達には無かったような大きな業績を上げていく訳なんです。
アラビア風奇想曲については、おもしろい資料がありますね。タイトルとしてCapricio Moruno、つまりモーロ人のカプリチョと書いてある。明らかに自筆譜で、とてもおもしろい譜面ですね。モーロ人というのはアラビア系・北アフリカ系のイスラム教徒のことで、彼らが中世にスペインへ入ってひとつの文化を伝えて、そのことが今日のスペインの独特な文化、すなわち、西ヨーロッパにありながら一番ヨーロッパらしくない国と言われる文化のあり方の素地を作っているわけです。この曲自体はそんなにオリエンタリズムっていうんでもないですが、最初に非常に細かい唐草模様みたいなのがありますね。アラベスクの模様というのはアルハンブラ宮殿に行くとよくわかりますけど非常に細かい装飾なんですね。だから、そういうものを用いて、モーロ風な、ミニチュア細工みたいな感じを出したかったのかなと。
それからこの曲は、聴いていると、何かあるものに寄せる郷愁・ノスタルジーみたいなものを感じさせますね。アルハンブラの思い出もそういう曲なんですけれど、遠い過去、モーロ人達が住んでいた昔の中世のスペインの歴史絵巻を、紐解いて見るような、そういう感じなのだろうと思います。
北口: どこか懐かしいような感じがする、というのは不思議なギターの魅力ですね。
先程のオリエンタリズムということに関してなんですが、いわゆる「近代ギター」(タレガの音楽性とトーレスのギター製作で特徴づけられるような、この時代の新しいギターの美意識)が、なぜこの時期スペインに沸き起こってきたのかという疑問が、私の中で大きくなってきまして、いろいろ考えたんです。
実は、ヨーロッパでは、フレットを備えた弦楽器はあまり長生きしていません。インドの楽器ですとか日本の琴などでは、振動中の弦を外から引っ張って音の途中で高さを変えるということがよくありますけれど、こんなときの(チョーキングの)「うぃーん」という感じは、ヨーロッパの伝統的な和声には、きっとあまりそぐわなかった。ところが、このトーレス・ギターだとよくわかるんですが、「近代」のギターは、フレットの深さを目いっぱい使うつもりで左手でしっかり押し込むと、音の粘りと伸びを、さらにもう一段、維持してくれます。つまり、ヨーロッパの美意識がやや敬遠してきた、ひとつの音のあり方を、トーレスはギターの魅力の本質的なものの一部と捉えて、西洋の楽器製作の歴史上はじめて和声的な音楽に取り入れる可能性を拓いたわけです。例えば、グリサンドなども、おそらくソルの時代の楽器では、「近代」風には出なかったと思いますし、ソルもそういう曲を書いていませんが、タレガは、バッハの「フーガ」の編曲などでも最初のミを鳴らすために、グリサンドを使って左手が動いてきてからもう一度押さえ直すことで、もう一度音がスイングするような効果を狙って装飾音を使っています。このフレットの深さを利用した(竿のしなりによる)音の粘り、深く押し込むことでさらに伸びる、そういう、まさに、フレットがあってはじめて出る音に対する美意識は、おそらく、ラテン系やゲルマン系のヨーロッパの文化に、それまでなかったものじゃないかなと思うんです。そう考えてくると、スペインでの当時のオリエンタル(東洋的)志向と、「近代ギター」が、一応、結びつくわけです。
こうした、いわば東洋的な、音への審美眼を、単なるムードで終わらせずに、きっちり作品に取り入れて残したという意味では、タレガは、バルトークやストラヴィンスキーらと並んでヨーロッパの最先端だったように感じまして、実は、私の中では、タレガの位置づけが変わったのです。
濱田: なるほどね。オリエンタリズムとは要するに、今までのヨーロッパ社会にはない見知らぬものへの憧れや魅惑ということですし、ロマンティシズムのひとつの特色ですよね。やっぱりそういう中で、ギターの音色の使い方や、グリサンドなどの手法も育まれてきたんだろうと思いますね。
北口: では、アラビア風奇想曲を弾きます。
アラビア風奇想曲
濱田: この曲で、私、いつも感心するのは、中間部のところが最初ヘ長調で、これはギターではとても鳴らない調なんですね。自分で弾いてて、どうしてここをこんな鳴らない調にしたんだろうと思っていたんですけども、考えてみますと、その後にニ長調に変わって、下の弦がレに下がってますし一番よく鳴る調に変わりますね。だから、二段構えで、クライマックスを作るためにその前を抑えた感じにしたかったんですね。楽器製作のことで「名器の中には捨てる部分がなくちゃいけない、すべて最上等の木材を使ったのではいいギターはできない、どこかで抜いてやって、普通の、少し程度の落ちる木材を使って、それで一番最高の名器が生まれるんだ」というお話がありましたよね。それを思い出します。一遍ヘ長調にして少しテンションを低くしておいてその後の盛り上げを最高に生かす、これはもうギタリストでなくては作れない作り方で、もしピアニストだったらこんな風に書かないと思うんですが、そういうところがやっぱり、この一見非常に甘美なセレナード風の曲に隠れている芸術家のすごい魂だと思いました。
人となり
濱田: この曲は、タレガが亡くなった時にブラスバンドで演奏されたそうです。ですから、彼の生前から広く知られていた。もちろん、アルハンブラの思い出も有名だったでしょうけど、あれをブラスバンドでやる訳にはとてもいかなかったのかも知れませんね。アラビア風奇想曲は、4拍子のしっかりしたリズムもあって行進していくのにいいということで、葬礼の時に町のブラスバンドがこれを演奏したっていう話が伝わっています。それから面白いのは、この曲をピアノにアレンジした譜面を、私、持っています。逆のケースはたくさんありまして、例えば、アルベニスや、グラナドスの曲をギターにアレンジしたものは、それこそ山ほどあるのですけど、ギタリストの作品をピアニストが弾こうとしてアレンジして譜面にしたっていうのは本当に少ないんです。これぐらいしかないんじゃないかと思いますね。だから、それだけこれは当時知られた名曲だったということですね。
北口: ところで、このプジョールの本によりますと、タレガが、パリでのコンサートの前日、非常に神経質になって、延期してくれないかと申し出た、と書いてありましたが、ある程度の人数を前にした演奏ということに対して、随分、神経が過敏になって来たようですね。
濱田: もともと彼は、ギターを弾けるぞということに絶大な自信を持って、どこへでも出ていくというタイプではなかったんですね。目が悪かったということも、もちろんあるんでしょうけれど、非常に内輪でデリケートな性格で、大勢の聴衆を前にすると非常にナイーブになってしまうというタイプだったようですね。内輪の集まりですと、もう、いつまでも素晴らしい演奏を聴かせてくれていたんですが。
北口: この時期の暮らしぶりをプジョールが記述している部分が、私、非常に印象に残っているんです。だいたい日課として、朝は、コーヒーを前に置いて音階練習・アルペジオ練習などをじっくりやりまして、お昼を過ぎても、奥さんが「そろそろ食事して下さいよ」と止めないといつまでもやっているような…。そして昼食が終わりますと、今度は机の上に、シューマン全集などのスコアを山のように積みまして、めくってゆきながら、作曲の勉強とか、アレンジの可能性を探ったりとかして、夕方あたりからプジョールなどお弟子さん達が集まって、遅くまでギター談義が…
濱田: そうやって集まるお弟子さん達はたいへん多かったんで、そういう意味では、彼は、幸せだったと言えますね。
なんか、たいへん情け深い人で、傷ついた雀の子をね、拾ってきて家の中で飼っていた。その雀は、タレガの頭がモジャモジャしているものですから、そこが自分の巣だと思って(笑)、すぐそこに飛んで行ったということを、プジョールが書いていますけどね。なんかそれを聞くと、名前がフランシスコですけど、聖フランシスのような人だったのかなと思いますね。
それから、彼はよく街を散歩したわけですけど、必ず、物乞いの人がいると施しをして歩くんで、その物乞いの人達がみんなで相談して、「あの先生は、目が悪いらしいから俺達が見張って注意してあげよう」と、気づかれないように少し後をついて歩いて…ま、暇な人達だったんだろうと思いますけど(笑)、後をついていってね。彼が亡くなったときは、もう、その街中の物乞いの人達が、もう泣きながらお葬式に集まってきて…拝んでいたらしいですね。そういう優しさっていうのは、たしかに、彼の曲の一番のポイント・特色かも知れないですね。
タレガの編曲作品の重み
北口: では、ピアノ曲のアレンジで、ショパンの「プレリュード」と、シューマンの「眠りの歌」を演奏したいと思います。
濱田: ショパンの「プレリュード」は確か全部で何曲か、可能な限りのものをアレンジしてますね。
北口: シューマンの「眠りの歌」は、タレガの曲集などでは子守唄Berceuseという題になっているのですが、原曲はシューマンのアルバムの綴りAlbumblätterの第16曲Schlummerliedで、日本語の作品リストでは「眠りの歌」と訳がついてました。この二曲を弾きたいと思います。
ショパンの「プレリュード第20番」
シューマンの「眠りの歌」
濱田: 本当にギターの世界で感動できる編曲、素晴らしいですね、元からギターのために書いたのと何ら変わらない。これぞ編曲という見本のようなものですね。
北口: ショパンの「プレリュード」は元のピアノでは、両手でたくさんの音を弾く曲です。そこで、何を省き、どういう和音にするか、ただ無難にアレンジしようとするなら、ギターで弾けるように圧縮して、ショパンの書いたことをできるだけいじらずにおいたと思うんですが、それからするとこの編曲は、新たなギター曲としての魅力と輝きを持たせたいんだという気迫が伝わってきます。
シューマンの「眠りの歌」の方も、原曲は、調も違いますしアルペジオでずっといきますので今の演奏からはちょっと想像もつかないような色合いの曲なんです。この曲のピアノの譜面を楽譜屋さんで初めて見たときには、え!この曲なのかなと不安になったくらいです。ただ旋律を追っていきますと間違いないですし、確かにこの曲だなと。そうやって確認が取れるにつれ、この隔たりの背後にあるタレガの積み重ねと、これで命を吹き込んだんだという並々ならぬ自負に圧倒され、楽譜屋さんでしばらく呆然としてしまいました。もう懺悔みたいになりますけど、家に帰ってからも、なんか申し訳ない気持ちでいっぱいで、今までどうして、この大先輩のこれだけの執念に気がつかなかったのかと。
濱田: アレンジというものは、やっぱり、オリジナルに近いからいいってもんじゃないんですね。その楽器に編曲する以上は、その楽器の最上のものを表現できるような形にしないといけない。ちなみに、エンデチャとオレムスのオレムスの方も、原曲はシューマンの幻想舞曲というタイトルの曲なんですけど、全然あれも違ったものに生まれかわらせてます。あと、例えば、あの有名なマラッツのセレナータ・エスパニョーラってのがありますが、あれ、原譜を弾きますと、なんかちょっと味気ないと言うか、まあ原典としての意味はありますが、あれもタレガが実に見事にギター曲に変えてしまった好例ですね。そういったところを見ても、彼はギターというものを本当にとことんまで知って、その命って言うか、良さ、本当の良さってのを常に表そうとした人ですね。本当に感動的です。
北口: ちょうど、翻訳でも、直訳すれば無難なんですが、しかし、日本語として命を吹き込んだ翻訳というのは、なかなかありませんね。本当に、タレガが、ネイティブなギター語をしゃべる人だったという感じがします。
晩年
濱田: 彼は、あまり大きな演奏会で演奏しなかった時期がしばらくあって、その間に、指の先の肉を鍛えて硬くして、指頭で弾くのが一番いい音が出ると信じて研究を重ねていたようです。彼の場合、ちょっと爪が弱い人だったみたいですから、実際、指頭弾弦の方がよかったのかも知れないですね。お弟子さんのミゲル・リョベートは結構爪を使っていろんな効果を出していたと言われてますから、「自分にはこれ」ということで、人に「絶対、ギターは爪を使うな」と言って無理強いしたわけではないですね。
そんな中、54歳の時、脳梗塞で倒れちゃったんです。せっかく自分の理想の奏法を見出して、自信を持って演奏活動をこれからと思ってたときに、半身不随になってしまったんですね。とても、悲劇的だったんです。それから2〜3年の間、もう涙ぐましいリハビリ生活をして、多少は演奏できるようになって、最後に、自分の故郷からそう遠くないバレンシア地方のアルコイ市(有名なホセ・ルイス・ゴンザレスが、近年までたくさん日本人の弟子を持って暮らしてた町)で最後の演奏会をしました。何とか演奏会をするまでに一生懸命リハビリで回復したんですね。けれども、その無理がたたったのかどうか、その年の内(1909年)にバルセロナで亡くなってしまったんですね。
北口: 晩年、おそらく教則本を、書こうとしていたのではないかと思うのですが、プレリュード(前奏曲)という題で、有名なもの以外にも8小節とか16小節ぐらいの非常に短いものが、たしか十数曲残されていますね。
濱田: ああいうのを見ると、教本の中のエクセサイズとして書いたような気がします。前奏曲集は、晩年のものだと思いますけど、いろんな転調を工夫してみたり、和声の響きを試したり、そんな新しい傾向にちょっと踏み出そうとしていたような、短い中にとても意味深いものばかり、やはり、作曲家としても、57歳じゃ早過ぎたなという気がしますね。
北口: では、プレリュードから3曲、イ短調、これは8小節の短いもの、ニ長調、これも8小節の短いもので、それからホ長調、これはもう少し小節数は多いですが、やはり小品です。
濱田: 俳句みたいなものですね。
プレリュード イ短調
プレリュード ニ長調
プレリュード ホ長調
講演:2000年11月4日・茨城県・洗心館にて
きずなの会主催「音楽のきずなセミナー」第2日・「根幹の肖像」第2部として
制作:きずなの会 (禁無断複製)
発行:2001年5月28日