経歴:北口功


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略歴

1963年大阪生まれ。
近藤敏明、北田幸男の各氏に師事。'81年第8回ギターコンクール1位なしの2位。
翌年、京都大学工学部に入学するが、第10回ギターコンクール第1位を機に渡仏パリ国際音楽学校にてミッシェル・サダノフスキー氏に師事'85年同マスタークラスを最優秀の成績で卒業する。
この間、レオ・ブローウェル、ロベルト・アウセルの各氏に師事
帰国後は、ソロ、ギターデュオ、室内楽などで幅広く活躍。
これまでにCD「銘器アントニオ・デ・トーレス」および、ロベール・ブーシェ生誕百年記念CD「北口功/ソル、ヴィラ=ロボスを弾く」をリリース。
和声の本質に根ざした真摯な演奏が「聴き手の居住まいを正させる奏楽」と高い評価を受けている。現在各地で演奏活動を行うほか、東京・大阪・福岡・茨城で指導にあたっている。

1963年

[9月]大阪市城東区で生まれる。

1964年

[2月]兵庫県伊丹市に転居。

以後、高校卒業まで在住。伊丹市立稲野小学校・伊丹市立西中学校・兵庫県立伊丹高校で学ぶ。小学校4年くらいからクラシック音楽(ベートーベンの交響曲など)をカセットテープで繰り返し聴くようになる。

1976年

[4月]中学の音楽の授業で初めてギターにふれる。

昼休みや放課後も音楽室に行って練習するほど興味を持った。

[7月]伊丹市内のギター教室に通い始める。

北田幸男先生の指導により、カルカッシギター教則本を中心に、当時中級者によく弾かれていた曲に取り組む。それまでギターというと、エレキかフォークか演歌というイメージしかなかったので、クラシック音楽を奏でられるといううれしさは大きかった。ギターは、76年に当時で定価1万円の国産普及モデル購入、78年からは定価5万円のモデルを使用。

1979年

[1月]第1回ジュニアギターコンクール(大阪)で、中学生の部銅賞。

演奏曲A.Mudarra/Fantasia

高校進学とともに近藤敏明先生の指導を受け始める。

Jose Ramirez(1978年製)を購入。

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1980年

[1月]第2回ジュニアギターコンクールで、高校生の部金賞。

演奏曲S.L.Weiss/Fantasie

高校2年の時、校内の体育館で行われた演劇鑑賞会のあと有志座談会に参加し、来演のプロの劇団員の発言に感銘を受ける。

教科では物理と数学が得意だったが、音楽を進路として具体的に検討するきっかけとなった。

1981年

[6月]第8回ギターコンクール1位なしの2位。

このあと、第一の関心が大学受験の方に移り、約1年間あまりギターを弾かず。

1982年

[4月]京都大学工学部に入学(後に中退)。

ギター部に入部し、大学内外の演奏会に参加。
京都市西京区に下宿。ギターと大学の勉強以外に趣味として、プログラマブル関数電卓や8ビットCPU機などにより、BASICや初歩的なマシン語で簡単なゲームやツール類をプログラミングしていた。

1983年

[6月]第10回ギターコンクール1位。

演奏曲J.S.Bach/Fuga、F.Sor/Variations sur l'air de Mozart Op.9、J.S.Bach/Prelude, Allemande, Gigue(Suite for Lute T)など。
直後の充足感と疲労の中、大学受験と音楽コンクールという「大人の用意した競争」に夢中になっていた自分に気づく。「今度は、用意された階段を昇るのでなく自分ではしごをかけてのぼる」、そのための力を磨きたいと強く願うようになった。

フランスへの留学を検討。

フランスに決めたのは、ヨーロッパのギター先進国の中で自分には一番馴染みがなかったから。とにかくわかる美を増やしたいと考えていた。

[8月]大学は休学とし渡仏。

到着日の宿も確保せずにパリへ。
さまざまな方のお力添えをいただきながら、なんとか音楽の勉強の態勢を整えにかかる。

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1984年

[2月]Universite Musicale Internationale de ParisにてMichel Sadanowsky先生の指導を受ける。

1985年6月までの1年半で3年分の教程を終え、5回ほどあった実技試験ではすべて受験者中最高得点であった。パリ第16区のAvenue Mozartの近くに下宿。Victor Bedikian氏製作の楽器を購入し、H.Villa-Lobos/12 EtudesやJ.S.Bach/6 Suites pour violoncelle seulなど毎日長時間練習していた。

[6月]Theatre Municipal de Paris主催のFestival International d'Orchestre(8日間、この年は第2回)の全コンサートを聴き、強く衝撃を受ける。

チケットの安さ、聴衆の集中、音楽家の自然な態度など、このときの驚きは後々まで自分のテーマとなっている。

[7月]南仏の田舎町Castreでの15日間のギター講習会に参加。

講師はLeo Brouwer、Alvaro Pierriの両氏。Leo Brouwer先生のクラスを受講(受講曲L.Brouwer/Decameron negroなど)。

1985年

前年の後半くらいから、ギターの演奏技能以前に自分に決定的に不足しているものがあるように感じ始め、コンサートを聴きに出かけることが増え(10ヶ月で300回を越える)、それと並行して中古LPレコードを買いあさる(約500枚)。

予備知識なく聴くとき自分が一体何に感動しているのかを、まず知ろうと思った。
Solesmesの修道院のグレゴリオ聖歌のミサを聴きに出かけたり、バッハのオルガン曲全曲演奏(パリ市内の各教会で15回以上の連続コンサートだった)からIRCAMの前衛的な音楽の初演まで、できるだけ何でも生で聴くようにしていた。特に「音楽史」への関心が高まり「初めて聴く曲でもある程度作曲者の見当がつく」くらいに、作曲の時代様式に精通することを目指した。

[6月]Universite Musicale Internationale de ParisのMaitrise修了。

14区に転居。

[7月]南仏Castreのギター講習会に再度参加。

講師はLeo Brouwer、Roberto Ausselの両氏。Leo Brouwer先生のクラスを再度受講(受講曲M.Ponce/20 Variations sur "La Folie d'Espagne" et Fugueなど)。

[10月]国立音楽院を受験し、不合格となる。

これを機に大曲難曲から離れ、F.Sorの練習曲一曲を、本当に自分の(まさに演奏中にその時の自分の)感性を反映しながら、自在に自然に(簡単そうに)弾く、ということにねらいをしぼりRoberto Aussel先生のレッスンに通い始める。「direction(音楽のフレーズが持つ方向とか行き先)」ということについて、楽しく徹底的に学ばせていただいた。

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1986年

[1月]スイスのバーゼルにてリサイタル。

演奏曲J.S.Bach/Sonata pour violon seulT、M.Castelnuovo-Tedesco/Sonata、H.Villa-Lobos/12Etudes。

[2月]パリ市の南の郊外Gentillyに転居。

[3月]キューバのハバナ国際ギターフェスティバルにてLeo Brouwer先生のクラスを受講。

ここまでの留学中、上記の先生方のほかに、A.Lagoya先生、A.Carlevaro先生、O.Ghiglia先生らのレッスンを聴講見学。

[5月]さまざまなことに極端に思い悩むことが続き、いったん帰国。

このときの閉塞感を言葉にするのは今も難しい。渡航以来、歴史と文化がたっぷりしみこんだ「世界」と出会い、自分の身体をいわば実験台に使うことで「人間の感性」を洞察するということを存分に追いかけることができ、毎日本当にわくわくする生活であった。その反面、ほぼ3年が経ち、豊かな芸術の美を前に、それと関わる自分の将来像が全く打ち立てられなかった。「世界」を知る自分が行き過ぎて「世界」に参加する自分から遠く離れてしまい、「自分など関わらない方が美をおとしめずにすむ」と考えていた。現在も、この考えは私の底流にある。この悩みに関しては、本質的に乗り越えた上で何らかの明るい将来像を得たわけではない。ただ、後になって、この点を暗く考えること自体、一種の思いあがりだと思えるようにもなった。

[9月]大阪にてリサイタル。

演奏曲J.S.Bach/Sonata pour violon seulT、M.Ponce/20 Variations sur "La Folie d'Espagne" et Fugue、H.Villa-Lobos/12Etudes。
約4ヶ月の帰国期間中、たくさんのお励ましをいただき、心身とも充実した状態でパリに戻る。

[11月]Aussel先生の勧めで、指揮法のレッスンに通う。

二人の先生に半年間で合計15回ほど。曲はBeethovenとStravinskiの作品。指揮の勉強は後にギター演奏に大きく生きることになった。また近くのCite UniversitaireにEnsemble Intercontemporainの練習会場があり何度か見学に行った。

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1987年

[2月]日本からのギター留学仲間とともに重奏ばかりのコンサートに参加。

[9月]パリ中心部の教会の地下堂Crypte Sainte Agnesにて、自分の留学のまとめとしてのリサイタルを開催。

演奏曲M.Castelnuovo-Tedesco/Sonata、J.S.Bach/Sonata pour violon seulT、F.Sor/La 2me grande Sonate Op.25-Cadenza L.Brouwer。
この時期は、Roberto Aussel先生のレッスンに通いながら、帰国後の音楽家としての活動の方向をあれこれ考えていた。
いったい具体的にどのようにして日本で生計が立つのか見当もつかなかったが、次のことが、きっと活動のバックボーンになるであろうという気がしていた。それは、ギター(や音楽)の中に何か人を魅了する秘密の仕掛けが隠されているのでなく、人々がそれ(ら)をより深く理解し楽しもうとする「意志」を常識として持っているのだという発見だ。
これは例えばフランス人に箸について伝えようとする場合を考えていただくとわかりやすい。たしかに、私たちは箸の持ち方や「冷奴はこう食べます」といった知識を持っているから、ある程度それを語ることはできる。しかし、説明を受けるフランス人は、なぜスプーンではいけないのか、日本にはスプーンがなかったのか、と切り返す立場をとることが可能だ。よく考えてみると、箸でなくてはならない理由はない。箸という道具の中に最初から使われるべき必然性があったのではない。どちらかというと、実は、私たちの側に、この道具の洗練を育む「意志」があったのだ。フランス人には、箸の技法と同時進行で、この「意志」(すなわち箸への愛着)を共有してもらう必要がある。
それでは、私が当時、日本人ギタリスト一般のギター愛が不足していると思っていたのかというと、決してそうではなく、楽器を弾きこなすということがどこか弾き手の孤高の営みとされてしまう状態、そのような常識に対して、何か働きかけられればと考えていたということである。

1988年

[3月]フランスより帰国。

さし当たっての収入という考えから受けた派遣会社の面接で、「あなたは音楽のために大学をやめておられる、今度行く会社もギターで収入が増えたらやめるつもりなんでしょう」との質問に「その通りです」と答えたところ、「うちでは紹介できません、帰ってください」と言われ、帰り道にやはり皆さん体を張って仕事をされているのだと、自分の甘さに気づかされ、一日も早く音楽で生計を立てねばという思いをいっそう強くした。

[5月]京都市山科区に住みレッスンを始める。喫茶店にて毎月のサロンコンサート「どぅすまん(doucement)」開始。

京都や大阪で多くのギター関係者と愛好される皆さんにお会いし、徐々に、自分は何も知らない浦島太郎状態にあることを痛感させられた。

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1989年

[3月]拠点を両親の住む大阪府寝屋川市に移す。家庭教師や塾講師のアルバイトを始める。

結果的にこの時期は、さまざまな関心に向けて地力を蓄える期間となった。レッスンのあり方や、重奏、編曲、和声の研究などのほか、一般社会の道理ということについて、人並みに実情を知り自分の意見を持とうとした。ここからの約2年で新書版の本を300冊近く読み知識も増えた。だがそのことよりも、お会いした多くの方々から生の体験談や処世訓をお聞かせいただいたことが、面白かったし後への影響は大きい。

[9月]豊中市立アクア文化ホールにてリサイタル。

このときの録音がひとつのきっかけとなって、ご推薦いただいた方のご助言もあり、のちに東京の音楽企画社と専属契約を結ぶことになる。

1990年

前年のリサイタル(いわゆる大阪デビュー)以降、重奏や室内楽へと活動の幅を広げる。

ギター二重奏、ギター三重奏、他楽器との共演(フルート・ピアノ・声楽ソロ・ギター合奏・シンセサイザー)など。また、これらのコンサートの企画と運営(会場探し、共同企画者との折衝、チラシやプログラムなど配布物の作成など)に積極的に関わり、心で音楽と出会えるコンサートを創るむずかしさと喜びを知った。指導活動も、学生ギタークラブの指導や楽器店でのレッスンなどへと広がった。

海外ギタリストの招聘でも実績のあった潟\ティエ音楽工房と演奏活動のプロモーションに関する専属契約(〜96年)を結ぶ。

この契約の期間は、30歳を挟んでの6年ということもあり、誰しもがそうであるように、実にさまざまなことを体験することになった。そのすべてを今ここで総括して総合判断を下すというわけにはいかないが、間違いなく良かったことだと思えることが、少なくともいくつかある。この間いつも「東京」のことが念頭にあったこと、内外の音楽家や音楽業界の皆様に大変緊張度の高い形でお知り合いになれたこと、そして、演奏の都度私なりの悔いのない準備ができたこと、など。

1991年

[6月]東京カザルスホールにてリサイタル。

つづく

北口功ギター教室・2004年6月17日〜9月26日
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